グローバルに仕事をするビジネスパーソンにとって「教養」は必須であるという意見をよく耳にします。また、タイトルに「教養」と名の付く書籍は毎月のように出版されています。そうすると、「教養を身に付けないとまずい」と思うのは人情というものです。
一方で、大半の書籍は「教養としての○○」という体裁をとっていて、○○に該当するのは歴史、哲学から始まってコンピューターサイエンス、果ては美術やワインにまで及んでいます。そうすると、「いったい教養って何なんだ」と疑問を感じるのも無理からぬ話です。
そこで、グローバルリーダーを目指すビジネスパーソンにとっての教養という問題について考えてみたいと思います。
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目次
1. 「教養」の化けの皮を剥ぐ
イメージはわかるけれども、言葉で明確に説明するのが難しいという概念があります。「教養」はまさにこれに該当すると言えるでしょう。このような概念は、人によって解釈が異なることになるので、混乱を引き起こす可能性があります。さらに言うと、中身が空っぽのいかがわしいアイデアである場合もあるので、注意が必要となります。
例えば、「営業は泥臭くやるべし」という教訓を考えてみましょう。筆者が新米営業マンだった頃によく聞いたフレーズです。「泥臭くやる」という意味がわからなかったので上長に聞くと、「それがわからないようでは営業失格だ」と怒られ、先輩に聞くと「やっているうちにわかるから心配するな」と言われたものです。
このようなよくわからないアイデアの真贋を見抜くためにはどうしたらよいでしょうか。そのためには、英語に翻訳してみるのが一番です。英語にして外国人に理解されないようでは、グローバルなビジネスに対応することができないからです。そうすると、「営業は泥臭くやるべし」という考え方はいかがわしいと断言できます。なぜならば、このフレーズの標準的な英語表現は誰にもできないからです。
それでは、「教養」を英語で言うとしたらどうなるでしょうか。大半の方が答えにつまったのではないでしょうか。どんなにTOEICのスコアが高い方でもです。誰も英語で言えないとすると、「教養」というのは「泥臭くやる」と同類、つまり、いかがわしいアイデアである可能性が高いことになります。そこで、「教養」についてビジネスパーソンはそれほど気に病む必要はないということを先ずは言っておきます。
一方で、世の中で重視されている概念を十分な考察もなしに否定するのは「教養人の対応ではない」と叱られそうですから、改めて教養について見ていきましょう。
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2. 教養の数奇な歴史
実態がはっきりとしないものに対しては、そのルーツに着目するのがお決まりと言えます。筆者の読書経験の中で、教養という言葉が出てくる最も古い書籍はプラトンの「国家」です。紀元前4世紀に書かれたものなので、これより古い例はそうそうないはずです。その中に、ソクラテスの言葉として次のような文章があります。
「節度を生みつけるとわれわれが言ったあの単純な種類の音楽・文芸を自分の教養として身に付けるならば、司法による裁きを必要とする事態におちいることのないよう、みずから戒めるような人間になることは明らかだ」(藤沢令夫訳、岩波文庫)
われわれのイメージする教養の姿がここにあると言えるでしょう。
- 教養は立派な人物と関係している。つまり、人格と関係している。
- 教養は音楽や文芸と関係している。つまり、専門知識だけではない。
- 教養は身に付けるべきものである。つまり、努力して獲得するものである。
英語版では「教養」のところが「education」となっています。原典のギリシア語の「パイデイア」を訳して、それぞれeducationと教養になっているというわけです。ここから、教養というのは教育のことで、古代ギリシアのパイデイアがルーツと捉えることができます[1]。
プラトンが「国家」において主張しているのは、完璧な教養を身に付けた人間が守護者(国のリーダー)になるべきだということです。そして、リーダーを育成するためには次のような教育が必要だと論じています。
- 数学(数と計算)
- 幾何(2次元と3次元)
- 天文学
- 音楽
- 30歳まではこれらの基礎科目に専念して、30歳を超えてから哲学的問答法、つまり、諸学の頂点に立つ哲学を勉強する。
数学から音楽までの4つの基礎科目は奇異に見えるでしょうが、プラトンの主張は一貫しています。それは普遍的な真理を学ぶということです。
例えば、1+2=3以外の解を導いたり、内角の和が180°ではない三角形を作ることは神様といえでも不可能です。数学と幾何には普遍的な真理があるのです。天文学と音楽は普遍的な法則性が関係します。天体の運行に法則性があるのは周知のことですが、音楽はどの音とどの音が響き合うのか、なぜそうなるのかを考察するものなので、そこに法則性が見られるのです[2]。
因みに、プラトンより130年ほど先輩の孔子も「『詩経』(孔子が編纂した歌謡集)を学ぶことによって精神や感情を高揚させ、礼法を学ぶことによって自立し、音楽によって教養を完成させる」(論語、泰伯8-8、井波律子訳)と述べています。楽器(瑟:琴の一種)を奏でるのも君子の条件と論語にあります。
今では何かあると不要不急のものとされる音楽ですが、昔は、洋の東西を問わず、人間の精神に欠くべからざるものとされていたようです。
注意すべきは、古代ギリシアの教養は自由市民のためのものという点です。多数の奴隷が少数の自由市民を支えていたのが当時のギリシアで、肉体的労働から解放された自由市民はポリスのリーダーとして政治と軍事だけに専念していたのです。したがって、教養というのは特権階級である自由市民がその義務を果たせるようにするものだったとも言えます。必然的に、生活の役に立つような実用性や職業性を志向するものにはならなかったのです。
中世になって都市が成立すると、専門職(聖職者、法律家、医師)の養成が求められるようになります。それに対応するために誕生したのが大学です。その大学では、古代ギリシアで考案された自由市民のための教育プログラムをベースにして次の7科目が基本プログラムとされました。
- 言葉に関する3科
> 文法、修辞、論理 - 数に関する4科
> 代数、幾何、音楽、天文
これがリベラルアーツ、つまり自由市民のための学芸と呼ばれるものです。
数に関する4科は古代ギリシアと同じで、それに言葉に関する3科が加わっています。3科を一言でいえばラテン語の勉強です。大学生が専門職のスキルを身に付けるために読むべきものと考えられた本はすべてラテン語で書かれていたからです。ここからリベラルアーツが教養のルーツであるという説も成り立ちます。
最近は、教養と同じようにリベラルアーツの重要性が語られていますが、両者が同根であることを考えれば、納得できる話と言えるでしょう。また、教養と古典は相性がよいイメージがありますが、そこにはリベラルアーツにおけるラテン語の影響が考えられるのです。
このように振り返ると、教養というのはその時代の社会が要請する人材になるための知的トレーニング、あるいは、そのような知的トレーニングを体得した人というのが元々の姿であることがわかります。それがアテネでは守護者であり、中世では専門職だったのです。
したがって、抽象化して言えば、教養とは今の社会に対応できる能力と理解することができるでしょう。
近世から啓蒙主義の時代に至って経済が発展するとともに、新しい産業の基礎となる学問が誕生します。このような実用的な知識を求める世の中の要求に対して中世スタイルの大学では対応が難しかったので、鉱業、農業などの専門学校が続々と誕生します。
例えば、ナポレオンは最先端の科学を教える学校としてエコール・ポリテクニークを創設し、グランゼコールという今日のフランスの高等教育の礎を築きます[3]。歴史を踏まえれば、このような新しい教育プログラムを勉強することが新しい時代の教養となるはずです。
ところが、ナポレオンに対して一敗地に塗れたドイツではその反動なのか、奇妙なことが起こります。19世紀の初めに行われたフンボルトによる教育改革で、大学は新しい社会の要請に応える専門家を育成するのではなく、エリートが普遍的な知を追求する哲学(古代ギリシア的な教養)を修得する場と再定義されたのです。
なんだか尊王攘夷のような復古運動に見えなくもありません。このフンボルトが設立したのがベルリン大学で、その初代学長がフィヒテで、後にヘーゲルも学長を務めています。ドイツ観念論の巨人がドイツ的な教養に大きな影響を与えたことは想像に難くありません。
このドイツの教育制度をモデルにしたのが戦前の日本です。その結果、日本では教養という言葉は、社会の要請に応える人材になるための知的トレーニングということにはならずに、職業教育を見下した、エリートによる抽象的な哲学(ドイツ観念論)を中心とした知的トレーニングといういびつな姿をとることになったのです。
その結晶が、大正時代に花開いた旧制高校の文化と言えるでしょう。実は、「教養」という言葉そのものもこの流れに乗って我が国に登場したものなのです。その経緯を進藤咲子氏の『「教養」の語史』という1973年の論文などを参考にして示すと次のようになります。
- 諸橋轍次の大漢和辞典によると、教養の最も古い用例は後漢書(5世紀)で、意味は教育と同じ。
- 日本書記に教養(意味は教育)という言葉はあるものの、それ以降我が国の主要な文書に教養という言葉は使われていない。
- 明治5年にJ・S・ミルの「自由論」を中村敬宇が翻訳したときに、educationを教養と訳した。
- 明治24年の大槻文彦監修の「大言海」には教養という言葉は収録されていない。
- 大正時代からドイツ語の「ビルドゥング」の訳語として「教養」が本格的に使われるようになった。ビルドゥングとは元々「形成すること」(英語のbuilding)で、そこから、「哲学による自己の形成」を意味するようになった。ヘーゲルは「教養(ビルドゥング)とは精神が実態的な生活の直接性から脱して形成されてゆくことである」としている(「精神現象学」)。
このような経緯を見ると、「教養」という言葉の意味がよくわからなくても不思議はないのです。論者によって「教養」の意味が違うのもやむを得ないと言えます。そのような中にあって例外的な存在が三島由紀夫です。三島だけは「教養」という言葉の意味を正確に認識していたように思います。
1969年に行われた有名な東大全共闘との討論会で三島は次のように言っています。
「私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。諸君がやったことの全部は肯定しないけれども、大正教養主義から来た知識人のうぬぼれというものの鼻をたたき割ったという功績は絶対に認めます」
教養主義とは言わず、わざわざ大正教養主義と言っているところがポイントです。つまり、「教養」というのが大正時代の旧制高校で生まれた特殊なもの、つまり、普遍的なものではないことをはっきりと認識しているのです。
それに対して、本来の教養については「絹と明察」で語っています。「絹と明察」は最後の作品となった「豊穣の海」の前作で、三島が30代の最後に書いた作品です。一代で駒沢紡績という大手製糸会社を立ち上げた経営者が主人公で、叩き上げの主人公と新時代の若者との価値観の衝突をテーマにした作品です。
その中で待遇改善を求めて労働争議に走る若手社員(大槻)について主人公の駒沢を通して次のように言っています。
「彼(駒沢)は若い者は苦労するのが当然で、若い者の楽園こそきびしい道場であるべきだと考えていた。若さが幸福を求めるなどというのは衰退である。若さはすべてを補うから、どんな不自由も労苦も忍ぶことができ、かりにも若さがおのれの安楽を求めるときは、若さ自体の価値をないがしろにしているのである。そして若くして年齢のこの逆説を知ることが、人間に必須の教養というものだった」
駒沢紡績こそが従業員である大槻にとっての社会になります。その社会に対応できる能力やそこで求められる立ち居振る舞いを三島は教養という言葉で表現しているのです。教養という言葉がその本来的な意味において使われていることがわかります。
3. 教養主義者の本音
いかがわしさの漂う「教養」ではありますが、ここで「グローバルビジネスにおいて教養は必須だ」という意見を見てみましょう。
紹介する代表的論者は、日本生命を経て58歳でライフネット生命を創業した出口治明氏です。現在ベストセラーとなっている「還暦からの底力」の著者としても有名です。2016年にHUFFPOSTに投稿した記事「出口の入口:『本物の教養』第1回 教養とは、人生に面白いことを増やすためのツール」で、出口氏は次のように述べています。
「「教養」は、ビジネスに直接役立たないどころか、グローバル化した世界を生き抜くための最強の武器になります。
ロンドンに三年間駐在し、その後東京でも三年間国際業務を担当しました。連続して合計六年間ほど、主として外国人相手の仕事をしたことになります。そのときの経験で痛感したのは、ほとんどがドクター(博士)、マスター(修士)である外国のトップリーダーに比べると、日本のビジネスリーダーはなんと教養が不足しているのか、ということでした。実際に、外国のトップリーダーと向き合うと、まったくと言っていいくらい歯が立たないと素直に認めざるをえませんでした。
僕が連合王国で仕事をしていたとき、「シェイクスピアは全部読みました」と言ったら、それだけで「おまえはいい奴だな」と急に相手との距離が縮まったことがありました。シェイクスピアは、僕が個人的な興味で読んでいただけですが、結果的に日本の経済や金融の話題以上に、ビジネスの役に立つことになりました。その相手から仕事がもらえたのです。」
なかなか興味深い意見ではないかと思います。教養はビジネスに役立つというのが出口氏の基本スタンスです。これは「今の社会に対応できる能力」という古代ギリシア以来の教養の伝統に則っています。ところが、それは博士や修士といった学歴と関係することになっているのです。
だとすると、奇妙なことが起こります。出口氏の出身母体である金融業界は事情が違うでしょうが、日本の大手製造業に博士はたくさんいます。修士にいたってはそれこそ履いて捨てるほどいます。そうすると、日本のビジネスリーダーが教養不足とは言えなくなってしまうのです。
次に、シェイクスピアのような古典の知識が教養にとって大事だということです。これについて向こうの人はどう思うのかが気になったので、フランス人の友人にこのエピソードを紹介してみたのです。そうしたら「ムッシュ出口はモリエールも全部読んでくれたのか」といかにもフランス人らしいエスプリの利いた答えが返ってきました。要するにまじめな話ではなくて、ジョークのネタとして受け取られたということです。
それにしても古典の知識が大活躍するというようなことがビジネス人生の中で何回ぐらいあるでしょうか。
例えば、日本人同士でビジネスをするときに、近松門左衛門を読んでおく必要があるでしょうか。日本人はお互いに教養がないのでそういう必要がないだけかもしれませんが。あるいは、「日本文化は何も知らないけれども儲けさせてくれるアメリカ人」と、「松尾芭蕉にくわしいけれどもビジネスは理屈倒れのフランス人」のどちらを商売のパートナーとして選ぶでしょうか。
真っ当なビジネスパーソンであれば、リターンがよく見えない「古典プロジェクト」に手間暇というリソースを大量に投入することは考えられません。
さらに言うと、古典を知らないと恥をかくと心配する人もいるかもしれませんが、相手の知らないことを話題にすることがそもそも教養ある人間の態度ではありません。実際問題として、そのような心配は無用だと思います。
そして、グローバルリーダーの素養について、出口氏は次のように語っています。
「僕がつき合っていて、この人はすごいと思ったグローバルリーダーは、ビジネスや経済だけではなく、文学、美術、音楽、建築、歴史などにも間違いなく深い素養を持っていました。
日本では、素人が雑学的にいろいろなことを知っている場合、よく「広く、浅く」という言い方をします。専門家の場合は、対照的に、「狭く、深く」です。グローバルリーダーの場合、「広く、ある程度深い」素養が求められます。しかも、個別に「狭く、深い」専門分野を持ったうえでの、「広く、ある程度深い」素養なのです。」
そのような人物に日本では滅多にお目にかかれないことは確かでしょう。しかし、それは欧米でも同じだと思います。
筆者の知りうる限り、そのような極めて例外的な人物はヨーロッパの貴族階級の出身者に限られます。生活の心配のない自由市民のための知的トレーニングという古代ギリシア以来の麗しい伝統がヨーロッパの貴族階級の中でなんとか命脈を保っているというわけです。
したがって、出口氏の教養論は学歴コンプレックス、欧州コンプレックスとしての教養ということになるような気がします。コンプレックスをバネにして成長することは素晴らしいことですが、教養の捉え方としてはいささか中庸の精神に欠けると思うのです。
4. グローバルビジネスと教養に関する個人的体験
出口氏には劣るかもしれませんが、筆者もグローバルビジネス経験者であると自己認識しています。フランス企業のフランス本社で働いたこともあります。出口氏の主張が個人的体験に基づいたものなので、それに対抗して筆者の個人的体験を披露することもご容赦いただけるのではないかと思います。残念ながら出口氏のような成功体験は一度もなく、与太話ばかりです。
まず、教養に関して鮮明に覚えているのは、30年以上前に片言の日本語を話すアメリカ人のコンサルタントと仕事をしたときです。アメリカ人なのに日本語を知っているので一目置いていたのですが、アメリカで一緒になった時に彼がスペイン語を流ちょうに話していたのです。驚いて「すごいですね」と言ったら、「教養のある人間は2ヵ国語ぐらい話すものだ」と衒(てら)うことなく答えたのです。
もちろん英語だったので、そのフレーズを思い出すと、well-educatedと言っていたように覚えています。前後の文脈から、教養という捉え方で間違いないので、well-educatedがアメリカにおける教養のイメージのように思われたものです。
次はフランスのケースです。出口氏が理想とするビジネスパーソン像(いわゆる教養人)をフランスでは何と言うかと聞くと、しばらく考えてからオム・キュリティベ(文化的な人、英語のculture)と反応するケースが多いです。
また、インテリの知人がとびきりチャーミングでみんなに愛されていたラテンアメリカ出身の夫人と離婚したので、びっくりして理由を聞くと、「彼女には教養がないんだ」と答えたのです。これもキュルティベを使っていました。
フランスでは、教養については文化という言葉を使うようです。因みに、「well-educatedなビジネスパーソン」というフレーズのイメージを尋ねると、ビジネスの専門教育を受けた人という反応で、文化を語るイメージはありません。フランス人にとって教養あるビジネスパーソンというのは筍とワカメ、ブリと大根のような出会いものではないようです。
フランスでは自分の「教養」の無さを痛感する経験をしたこともあります。パリから500kmも離れた田舎町に住んでいたのですが、街中を歩いていたら「お前は日本人か。それなら禅について教えて欲しい」といきなり尋ねられたのです。そのときに何も答えられない自分に愕然としたものです。
この経験から言えることは、無教養を恐れるのであれば、シェイクスピアよりも日本の伝統文化について勉強する方が理に適っているということです。なぜならば、われわれが外国の教養人に期待されているのは相手国よりも日本についての教養だからです。
フランス人と絵画について議論をすることを考えてみましょう。ゴッホやセザンヌについて気の利いた意見を言うよりも、印象派が誕生する契機となった浮世絵について語ることが、われわれに期待されている役割のはずです。
中国についても少しだけ述べます。日本の豚が中国では猪になっているように、両国では異なる漢字を使うケースがままあります。それを踏まえて、「教養」の二文字を中国人に見せると、中国でも使う言葉だと言います。その意味を聞くと、後漢書における意味、つまり、教えて養うという「教育」ではなくて、日本人がイメージする「教養」と似ているようです。
文明開化とともに大量に流入した西洋の言葉を日本で漢字に翻訳したものがそのまま中国に輸入されたケースが多々ありますが、「教養」もそのうちのひとつのようです。
5. ビジネスパーソンは教養とどう付き合うべきか?
それではビジネスパーソンは「教養」なるものとどのように付き合えばよいでしょうか。あくまでも筆者の個人的体験に基づいたものですが、4つのことを提案したいと思います。
第1に、「教養」というものに対してビビらないということです。調べてみればすぐにわかりますが、教養そのものについての情報が少ないことがわかります。教養は本格的な研究対象になっているとは言い難いのです。そのため、教養とは何かという問いに対する定説はありません。
そうすると、地位や年齢で優越的な立場にある人間が自分に都合のよいように「教養」の意味を解釈して、攻勢を仕掛けてくる可能性があります。だから教養は厄介なのです。
しかし、教養という概念の歴史的経緯を認識しておけば、教養に対して無用の心配をする必要がないことがわかるはずです。特にコンプレックス産業としての「教養」に対して過剰に反応する必要はないのです。
第2に、今の社会に対応できる能力という教養の本来の意味に従って、ビジネスの知的トレーニングをすることです。ビジネスパーソンにとっての社会は直接的にはグローバルなビジネスの現場です。そこにおいてプロのビジネスパーソンに求められるのはあくまでもビジネスのスキルです。
頼りになるビジネスパーソンこそが教養あるビジネスパーソンなのです。今のところアメリカがビジネスの理論をリードしているので、アメリカ発のアイデアを学ぶことが多くなりますが、それは西洋コンプレックスとは関係のない話です。
第3に、相手に対するリスペクトです。これは何もグローバルに限った話ではありません。筆者は新卒で財閥系の大企業に入社したのですが、地方への転勤に際してはその地方の歴史を勉強することが強く推奨されていました。
何事も便利で楽しい東京から不便な地方(特に工場の所在地)に行った場合に、ついつい不満が口に出るものですが、それでは地元の人心を得ることはできません。地方の歴史を学ぶことで、その地方に対する愛着やリスペクトを身に付けることが教養として求められたのです。同じことがグローバルな土俵でも言えます。
そういう意味において、出口氏が主張するように歴史の知識が教養の助けになることは確かです。しかし、本当に大事なことは知識よりもリスペクトするという姿勢なのです。リスペクトの帰結として、相手の歴史や文化を知りたいと思うようになるわけです。
これに関連しますが、筆者が関係する異文化コミュニケーションのコンサルティングにおいて、「アメリカ人が初めて日本に来てビジネスをするので、問題を起こさないようにビジネスマナーのトレーニングして欲しい」という依頼をよく受けます。安請け合いをして信用を失うわけにもいかないので、いつも「アメリカでもマナーが悪い輩に日本のマナーを身に付けさせることはできない。逆に、アメリカでマナーがよいとされる紳士は日本の礼儀作法を知らなくても問題を起こすことはない」と答えることにしています。
アメリカでも紳士は目の前で相手の名刺をもてあそんだりはしないものです。結局のところ、マナーに対する姿勢、つまり、相手をリスペクトしたいという気持ちがあれば、それが相手にも伝わるのです。その結果、教養があると思われるかどうかは別として、少なくとも無教養だと思われることは避けられます。
再び、筆者の勤務した会社の例で言うと、20世紀初頭に初めて海外(中国)に工場を建設する際に、派遣する社員に対して創業者が「日本を出たら諸君は日本の代表なのだ。常に日本の代表としてふさわしい振る舞いをすべし」という訓示を与えたことが社史に出ていました。
これも教養ある人間は相手をリスペクトするという教えを説いたものと言えるでしょう。
第4に、出口氏が力点を置く「ビジネスや経済だけではなく、文学、美術、音楽、建築、歴史などの素養」についていうと、優先すべきテーマは日本の文学、美術、音楽、建築、歴史です。
フランスの職場のパーティでペトリュス(ポムロール地区の超高級ワイン)は何年物がベストかということが話題になったことがあります(フランスでもこんなスノッブな会話は滅多にありません)。議論に参加できるはずもない筆者は黙って聞いていたのですが、仲のいい同僚がそれを見て「みんな5 €以下のワインしか飲まないのによく言うだろ」と語りかけてきたのです。
こういうのが教養ある人間の振る舞いではないかと思いますが、一方で、そのときは、連中が筆者をリスペクトして「日本酒について聞きたい」と話題を振ってきたらどうしようと内心焦っていたことを覚えています。日本酒について語れなくても問題はないのですが、日本の代表としてはフランス人をガッカリさせてしまうのはちょっと情けないと思った次第です。
教養というのは年寄りの戯言に過ぎないという指摘は必ずしも間違っているとは思いません。一方で、「今の社会に対応する能力」という歴史的な意味で捉える限り、教養は常に進化を遂げていくものになります。そうすると、教養というのは決して死語にはならないのです。
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6. まとめ
ビジネスパーソンにとって教養は頭の痛い問題と言えます。なぜならば、その意味が不明瞭だからです。不明瞭なものを追求することは困難です。
古代ギリシア以来の歴史を紐解くと、教養とはその時代の社会が必要とする人材を育成するための知的トレーニング、あるいは、そういった知的トレーニングを体得した人を指すことがわかります。
歴史の偶然によって、日本には明治時代にドイツからいびつな形で「教養」という概念が輸入されることになりました。それは、実務教育を見下したエリートによる哲学を中心とした知的トレーニングという形態をとっていたのです。このような大正教養主義より以前に、教養という言葉はわが国では使われてはいなかったのです。
グローバルビジネスに教養は必須であると唱える論者の多くは大正教養主義の影響を受けていると言えます。そのため、文学、美術、音楽、建築、歴史などの知識を重視しますが、そこにはどうしても欧州コンプレックスが垣間見えるのです。
教養というものの本来の意味に従えば、ビジネスのスキルを磨くのがビジネスパーソンにとって最も大事な教養だと言えます。なぜなら、ビジネスの世界でプロに期待されるのがそれだからです。
大正教養主義者が重視する専門以外の該博な知識はあるに越したことはないですが、それよりも大事なことは相手に対するリスペクトです。どんなに知識があっても、相手に対するリスペクトがなければ教養ある人間とはみなされません。
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[1] W. Jaegerの”Paideia: The Ideals of Greek Culture”によると、パイデイアという言葉は紀元前5世紀に書かれたアイスキュロスの「テーバイ攻めの七将」が初出となっています。そこでは子供の養育という意味で使われているということです。
[2] 弦の長さと音の高さとの法則性-長さが1/2になると1オクターブ、2/3だと完全5度(ドに対するソ)、etc. ―に注目して音律を確立したのがピタゴラスの定理で知られるピタゴラスです。ピタゴラス音律は中世までヨーロッパでデファクトとして使われていました。現在は1オクターブを12等分した便利だけど響きのよくない平均律がデファクトになっています。
[3] フランスでは現在も最優秀の高校生は大学には行かないでENAやエコール・ポリテクニークといったグランゼコールに行きます。政官民を問わず、若くして重要ポストにいるのはグランゼコール出身のエリートで間違いありません。
<参考文献>
阿部謹也(1997)『「教養」とは何か』講談社現代新書.
清水真木(2010)『これが「教養」だ』新潮新書.
進藤咲子(1973)「『教養』の語史」『言語生活』265号.
プラトン著、藤沢 令夫訳(1979)『国家』岩波文庫.
三島由紀夫(1987)「絹と明察」新潮社.
<参考情報>
出口治明(2016)「出口の入口:『本物の教養』第1回 教養とは、人生に面白いことを増やすためのツール」、<https://www.huffingtonpost.jp/haruaki-deguchi/culture-knowledge_b_13713286.html>(参照2020年7月)